ガチャリ、と鍵の回る音がして、次いで勢いよく扉が開いた。
六畳間から玄関へと伸びる長方形の空間に続いた扉は開けっぱなしで、私が鉄線を弾いていた手を止めて顔を上げると、今しがた扉を開けた人物の影が、もぞもぞと動いているのが見えた。
「お邪魔しまーす」
暗くて表情が見えなくても、大きめのやや通る声で、酔っている、ということがわかる。私は抱えていたギターを置いて、裸足のまま、ぺたぺたぺたと玄関へ向かった。途中、何年も履き古してボロボロになったジャージの裾につまずいて、転びそうになる。私は酔っているわけでもないのに。
「あっはい。こんばんは」
私が喜多ちゃんを出迎えるのに使う言葉はこれだった。「こんばんは」。「お帰りなさい」と言うのは少し違う。ここは喜多ちゃんの家じゃないし、朝、喜多ちゃんがここから出かけていったわけでもない。そういう日もたまにはあるけど、今日は違った。それに、例えそういう日であったとしても、私は「お帰りなさい」とは言わない。喜多ちゃんからは、ややおどけるように「ただいま」と言われることもあったけど、私はもごもごと口を動かしてから、やっぱり「こんばんは」と言うのだ。
扉がガチャリと音を立てて閉まって、入り込んできていた冷気がふっと体にまとわりついて、消えた。冷気の中には、ほんのりと香水とアルコールの匂いが混じっていた。
ざらざらとした壁を手で探って電気を点ける。喜多ちゃんは「よいしょ」と言いながら脱ぎにくそうな靴を脱いでいて、白い灯りに照らされたその頬は、私の想像通りほんのりと赤らんでいた。喜多ちゃんが靴と格闘している間、私は所在なくその姿を眺める。肩のあたりでふんわりとウェーブしている髪。揺れる毛先。その隙間から覗くイヤリング。綺麗に乗ったお化粧。赤い唇。緩んだ口元。大学生になってよく飲み会に誘われるようになった喜多ちゃんは、ほとんど引きこもり状態の私なんかとは違って大人びて見える。私はその姿をじっと観察しながら、そういえば今って一体何時だったっけ、なんてことをぼんやりと考える。
ようやく靴を脱ぎ終えた喜多ちゃんが、立ち上がった後私に一歩近づいてきて、私は一歩後ろに下がる。「ウー」と不満げに唸る喜多ちゃん。私がそれに怯んだ隙に、喜多ちゃんが私の体を目掛けて倒れ込んできて、腕がするりと腰のあたりに回った。
柔らかくて、暖かくて、細い。しばらく宙を掻いていた手を恐る恐る喜多ちゃんの背中に回すと、喜多ちゃんの満足そうな鼻息が、ふんっ、と肩にかかった。酔ったときの喜多ちゃんだなあ、と思う。
「お水、飲みますか?」
私の肩にすっぽりと収まった喜多ちゃんの頭部が、何かを答える代わりに縦方向にぐりぐりと動いた。私は軽く目を閉じて、冷蔵庫の中身を思い出す。健康に良いからと買わされた納豆が数パックと、先週末に喜多ちゃんに作り置きしてもらった煮物が、百均で買った安っぽいタッパーの中に少しだけ残ってる。その横に、度数が弱めのチューハイの缶が何本か転がしてある。私が好きな味と、喜多ちゃんが好きな味。喜多ちゃんが来ると聞いたから、今日の夕方、わざわざ近所のコンビニに行って買ってきたんだ。扉のポケットには二リットルの天然水のペットボトルが二本。これは常に買い置きしてある。夕方近くに急に声がかかることもあったから、そんな時でも喜多ちゃんに酔いを覚ましてもらえるようにと思って。喜多ちゃんに酔っていて欲しいのか、酔っていて欲しくないのか、どっちなんだろうと自分で思う。
「ひとりちゃん」
「あっはい。なんですか」
喜多ちゃんが私を見る。私の肩を枕みたいに使いながら、とろんとした眠たげな目を私に向けている。酒気を帯びた吐息が熱く、私の頬のあたりを撫でる。
「今日、泊めて」
喜多ちゃんはその一言を発する時、ふわふわとした不思議な声色を使う。
どうしていちいちそんなことを確認するんだろう。改めて確認なんてしなくても、既に二人分の寝床は用意してあるし、パジャマの準備もしてあるし、こんなことはもう一度や二度じゃないのに。
『今日、お邪魔しても良い?』という喜多ちゃんからのテキストメッセージに、『はい、大丈夫です』という簡素なメッセージを、私は返した。部屋で何かに没頭する時、いつも目の届く範囲にはスマホがあって、チカッと画面が光る度にそちらに目を奪われる。それが喜多ちゃんからのメッセージだった時、私はあえて数分ほど時間を置いてから返事をする。お邪魔してもいい?というその言葉の裏には、泊まりたい、という意図があることは分かっていた。私が分かっているということを喜多ちゃんも分かっているはずだけど、それでも喜多ちゃんは毎度の如く、こうしてわざわざ口頭で確認を取った。
「はい、大丈夫です」
私がたどたどしく答えると、喜多ちゃんは嬉しそうな笑顔を浮かべて、私の腕の中でくたっとした。その体がずり落ちていかないように、ぎゅっと、強く、喜多ちゃんの背中を抱きなおす。すると、込めた分の力を返すみたいに、喜多ちゃんも私に回した腕に力を込めた。
喜多ちゃんと触れた箇所が熱く、熱が籠る。と、同時に、頭の中の冷静な自分が、喜多ちゃんは一体誰と、どんな風に飲んできたんだろう、私の知らない友達とどんな風に話して、どう関わってきたんだろう、なんて考える。私なんかにそんなことを知る権利もなければ、知ったところでどうしようもないのに。
喜多ちゃんに触れることは、喜多ちゃんから触れられた時にだけ許されている。私は自分勝手にそんな風に考えていて、だから今は、喜多ちゃんのことを好きなだけ抱きしめていてもいいんだ、なんて、やっぱり自分勝手に解釈する。
互いの鼓動の音が伝わるくらい近くで、私たちの玄関先での抱擁は、今日は少しだけ、長く続いた。